10月21日は国際反戦デー。1945年の終戦から80年近くがたち、身近に戦争を知る人は少なくなってしまった。当時の人たちは戦争によってどんな生活を強いられていたのか。戦争は暮らしにどんな影を落としたのか。
日本は世界で唯一の被爆国でもある。本記事では戦時下の広島を舞台にした作品「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(2019年公開)をピックアップすることで、当時の人たちの気持ちや暮らしに思いを馳せてみようと思う。
【10月21日は国際反戦デー】戦争や原爆が奪うものを「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」から学ぶ
最終更新日:2024年10月17日
ベトナム戦争反対を呼びかけた「国際反戦デー」
本作を紐解いていく前に、国際反戦デーについて押さえておこう。1966年、日本労働組合総評議会が米軍のベトナム戦争介入反対を訴え、ストライキを実施した。それとともに、同組織が全世界の反戦運動団体にベトナム戦争反対を呼びかけたことに由来した記念日が国際反戦デーだ。
戦時下で普通に生きようとした人々を描く「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」
「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、戦時下の一般の人たちの生活に焦点をあてた作品だ。原作は、こうの史代の漫画「この世界の片隅に」(双葉社)。クラウドファンディングにより資金調達され制作された大ヒット映画「この世界の片隅に」(2016年公開)の長尺版であり、250カットを超える新エピソードが追加されている。
作品のあらすじ
おおらかで絵が得意な主人公のすずは、18歳で広島の江波から呉の北條家へお嫁にいく。次第に戦況は悪化するも、すずは持ち前の朗らかさで夫の周作や、嫁ぎ先の家族と打ち解けていく。食料や物資は枯渇し、戦争の生活への影響は大きくなっていくが、工夫をこらしながら、ひたむきに日常を送るすず。しかし、いよいよ空襲の勢いは大きくなり、すずは大事なものを失ってしまう。
作品に登場する主なキャラクター
作中に登場する主要なキャラクターについても押さえておこう。主人公のすずに加え、夫の周作や、嫁ぎ先の家族の面々を紹介しよう。
北條すず(旧姓:浦野)
広島市江波生まれで、絵を書くことが好き。ほがらかなタイプで、持ち前の気質によって嫁ぎ先の北條家の面々にも受け入れられていく。声を演じるのは、女優ののん。
北條周作
すずの夫となる人物で、海軍軍法会議所の録事(書記官)として働く。新生活に慣れないすずに優しく接し、すずの味方となる。
黒村径子
すずの義理の姉。結婚して実家を出ていたが、ある事情により娘を連れて生家に戻ってくる。おっとりとしたすずとは違いテキパキとしたタイプ。
黒村晴美
径子の5才の娘。おとなしい性格だが、すずと仲良くなり一緒の時間を過ごす。
北條円太郎とサン夫婦
すずの義理の両親。のんびりしたところのある義父と、脚は悪いが穏やかに家族を見守る義母という2人だ。
戦争が日常を侵食していくさまを、作品の台詞から追う
ここからは、主人公・すずたちの台詞から、戦争によって日常生活はどう変わっていくのかを追ってみたいと思う。
作品の前半では、そこまで主人公たちの日常生活に戦争の影響が感じられるわけではない。むしろ、のほほんとした性格のすずが、嫁ぎ先での新生活に戸惑いながらも懸命に働き、馴染んでいく様子が描かれている。しかし、物語後半では空襲警報の回数も頻繁となり戦争の脅威が命を脅かしていく。
ありふれた日常をいとも簡単に変えてしまう戦争。すずたちはそれでも"普通の暮らし”を続けようと懸命だ。本作の印象的な台詞をピックアップし、戦時下の市井の人々の心理変遷を見ていこう。
「大ごとじゃ思うとった あの頃は 大ごとじゃ思えた頃が 懐かしいわ」
すずの義母であるサンが、戦争が生活を脅かす以前に夫が失業した出来事を振り返って発した台詞。戦争によって生活が変わってしまった今となっては、「あのときはまだ良かった」「つらかったはずのあのときでさえ幸せだった」といった気持ちが伝わってくる。
2024年の現在、終戦してから80年近くが経ち、日本においては戦争はどこか遠くの国の出来事になっている。すずや義母のサンのように戦争という非日常が当たり前になったときに見えてくる幸せがあるということが、この台詞から感じられよう。
「戦争しよってもセミは鳴く チョウチョも飛ぶ」
いくら日常生活が様変わりしようが、それとは関係なしに季節は過ぎるし、生き物も変わらず姿を見せるというギャップが象徴的な、すずのナレーション。戦争という非日常にも変わらないものがあるという、ある種の切なさを感じる台詞だ。
「ははあ 戦争前の 夏休みみたいじゃねえ」
戦況の悪化に従い食料は配給制となり、砂糖などの調味料も貴重品に。そんな中で、すずは貴重な砂糖を切らしてしまい闇市に出向くことに。日常から消えたはずの画材やスイカ、調味料などのさまざまな物資が売られる闇市を見て、すずから思わず出た一言がこの台詞。栄養状態が悪くなるほど物資の枯渇した生活の中で目にした闇市は、すずの目に活気のある夏休みのように見えたのだろう。
「そんとな国で 生きていけるんかね」
闇市では、砂糖一斤が20円で売られていた。「は… 配給の50倍以上?」と驚くすず。「お義母さんのヘソクリと 今月の生活費 合わせて25円。どうね 今にお砂糖が150円くらいになって(中略)そんとな国で 生きていけるんかね」と、先行きに不安を感じるすずの気持ちが溢れ出ている。
「警報もだんだんと頻繁になってきて ほいでも秋ともなれば 夏のお布団しもうて 冬もん出して」
日常生活を守っていくことこそが、すずたちの戦い。戦時下でも"普通の日常”を守ろうとしたすずたちの様子が表れた台詞といえよう。
「何でも使うて暮らし続けるのが うちらの戦いですけえ」
物資の枯渇する戦時下において、調理方法を工夫したり、落ち葉を燃料としたり、創意工夫をしながら暮らすすずたちの姿も印象的だ。台詞からは、すずなりの覚悟を強く感じる。戦地に赴く男性に変わり、日常生活を守った女性の強さもにじみ出ている。
「最後の1人まで 戦うんじゃなかったんかね」
昭和20年、すずたちはラジオから流れる天皇陛下の玉音放送によって敗戦の事実を知る。一緒に放送を聞いた女性は、「でこりゃあ 負けたということかね?」と口に。
これまでさまざまな苦難に耐えてきたすずは、「なんで?(中略)最後の1人まで 戦うんじゃなかったんかね。今ここへ まだ5人おるのに」と抑えてきた気持ちを爆発させる。
「飛び去っていく うちらのこれまでが それでいいと思ってきたものが だから我慢しようと思ってきた その理由が」
敗戦の事実を知り、すずはこれまでさまざまなことに我慢してきた心の拠り所を一気に失ってしまった。何のために厳しい現実に耐え、懸命に生きてきたのか。"勝利のために”という本分が絶たれたとき、どこに気持ちの落としどころを見つけたらいいのか。
平和な日本に生きている身としては、肌感覚ですずの気持ちを理解するのは難しい。けれど、すずが生を投げ出さずになぜ耐えてこられたのか、その理由がわかる台詞ではなかろうか。
「ああ… 何も考えん ぼーっとしたうちのまま 死にたかったなあ」
自らがぼーっとした性格であることを自覚する描写もあるほど、すずはどちらかというと抜けている、愛されタイプの主人公。そんなすずから出たのが、この台詞だ。生き残ったからこその苦しみもある。朗らかな女性が死を望んでしまうほどの暗い影を落とす戦争に、何ともいえない気持ちになる。
日常に戦争が入ってくるとは、こういうこと
もちろん、今の時代に本当の意味で戦争の恐ろしさを知ることは難しい。けれど、映像作品を通して「戦争が日常に入ってくるとはこういうことなのか」と知ることはできるし、少しでも知ろうとすることが結果として平和を守っていく手段にもなるだろう。
例えば作品のラストでは原爆症によって健康体だったすずの親しい人物が気弱になっている姿をはじめ、幼い子供を連れた母親が被爆したまま亡くなって、身体が朽ちていき、残った子供が彷徨う姿なども描かれる。
日本は世界で唯一の被爆国でもある。本作は原爆の投下された広島を舞台にしており、その時代のそこに居た人々に思いを馳せることが、日本人として平和を考えていく上では必要ではないだろうか。
私たち1人1人の声は小さいかもしれないが反戦の声をあげることは、あなたとあなたの大切な人たちを守る一助になるのだから。
2024年には、核のない世界の実現を訴え続けた「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞
2024年10月11日に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞した。広島・長崎の被爆者たちが核兵器のない世界を実現するために証言を続け、長きにわたって草の根運動を続けてきたことが評価されたかたちだ。
ロシアのウクライナ侵攻などに伴い「戦術核」や「戦略核」といったワードもたびたび聞くようになった。唯一の被爆国に暮らす身としては、原爆の恐ろしさを再認識しておくことや当時の惨状を知っておくことが欠かせない。
戦争を体験したことのある身近な祖父母などから話を聞く機会も少なくなってきてしまった今、10月21日の国際反戦デーを機に本作を鑑賞し、当時の人々の暮らしや気持ちに思いを馳せてみてはいかがだろうか。そうした一人ひとりの行動が、平和を守っていくことにもつながるだろう。